頑固党と志禮
明治十二年(1879)の琉球処分で琉球王国は完全に消滅し、沖縄県が新たに設置された(廃琉置県)。この琉球処分に不満を持つ旧支配層の一部には、清国に亡命して清政府に「琉球王国の再興」を働きかける者が現れた。このように清に脱出し、琉球王国の再興に奔走した人士を「脱清人」という。県内でも、琉球王国の再興を求める「頑固党(クルー)」とそれに反対する「開化党(シルー)」があった。
琉球処分時、親清国派の士族集団を頑固党と言った。琉球の日本統合に反対、琉球王国の維持・存続を主張した。
明治二十七年(1894)日清戦争が勃発すると、頑固党は清国戦勝祈願祭を行い、開化党は日本の戦勝祈願際を行うなど、対立を続けていた。日清戦争で清国が敗北したことで、琉球王国の再興請願は絶望的な状況となった。頑固党の中心人物であった亀川(親方)盛武も活動から手を引くようになったが、衰退しつつある頑固党の状況を看過できないとの決意を抱いて、向志禮(義村按司朝明)が頑固党の領袖となり、琉球処分による日本への帰属を拒んで、脱清人となり、北京政府に対して陳情を繰り返したが、志を果たせず、福州で没した(客死)。
このような状況下で、頑固党の勢力は急速に衰えて開化党による急速な内地化が図られていった。
また、東京に幽閉された最後の琉球19代国王(尚泰王(しょうたいおう)、在位:1848年6月8日-1872年10月16日、琉球藩王・在位:1872年10月16日-1879年4月4日)の復活をめざし、尚家が中心となって尚家統治の再興を求める公同会運動も起きたが、これも明治政府に却下され、琉球王国の再興の動きは終息に向かった。これ以降、組織的な独立運動は絶えることになった。
このような世情であっても、琉球の御系図奉行は士族の家譜管理していたようだ。しかし、明治十二年(1879)の琉球処分以降、義村家の家譜には欠落があり僅かな記録しか残されていない。
明治九年(1876)12月、知念玉城で代理祈願を行う(46歳)。
明治十一年(1878)6月、製方奉行に任命(48歳)。
明治十二年(1879)3月31日、琉球処分(首里城明渡)
…琉球処分以降、明治二十八年まで記録なし。
明治二十八年(1895)5月、公同会反対陳情のため上京。尚泰王への面会が叶わず、帰沖。
明治二十九年(1896)11月、陳情のため清国へ渡る(66歳)。随員は小城按司明良他6人。
明治三十一年(1898)1月、福州にて客死(69歳)
昭和八年(1933)11月、福州墓地にて洗骨。12月平良本墓(首里)に移葬。
明治十二年の琉球処分以降、開化党との確執があるなかで、琉球王家復興のために奮闘する頑固党であった。一方で、東京の尚家が中心となって始まった公同会運動が頑固党の思いと異なる立場を取るに至って、国王の信任が失われたことによって頑固党自体の活動が弱体化したことは前述した。弱体した頑固党を盛り立てて、琉球王国復興を目指して清国に密出国して脱清人となって陳情を行った。
志禮・明良親子は激動の時代に翻弄され、反政府活動を行ったため家譜に詳しい記録を残すことが許されなかったのであろう。
(記:平成25年7月30日)