志禮の活躍と東風平魂

三世・義村按司朝明(向志禮)は道光二十七年(1847)家督を継いで、”東風平間切惣地頭職”となった。王家につながる武士の習いにしたがって、色々な役職を歴任した。東風平間切の按司地頭である、義村按司朝明は貧困に窮していた東風平間切を救済したが、その概要について義村家の家譜から抜粋し、朝明の活躍を垣間見ることとする。

 

 道光二十七年(1847年、弘化4年)丁未624日、三世尚謙・義村王子朝章の家統を継ぎ、”東風平間切惣地頭職”を拝命(17)

◇東風平間切りの復興◇

 咸豐九年(1859年、安政6年)己未45日、疲労困憊の東風平郡の振興を図る旨を請け、首里の義村御殿を引き払い、家族共々当間切りに赴く(29)

 同治三年甲子(1864同治3甲子元治1)12月、東風平間切に滞在し、振興方法を考え、間切の民使・役人を指揮し、農業の振興に努めた。その結果、滞納していた賦税を納め、欠損は償還し、且つ、義銭、義米を蔵に儲け、以って不時の需要に用いるために備えることができるようになった。努力の結果、ようやく復興の気配が現れてきた(34)

 

 村人の先頭に立って、困窮甚だしい東風平間切の復興に対する、義村按司朝明の活躍は「島尻郡誌(昭和12715日)」で高く賞賛されている(旧文体のまま)。

 今から百余年前の事である、今の東風平村全体が疲弊困憊して恢復の望みも絶えて、所謂間切倒れといふ破綻状態に瀕した時、当時東風平間切総地頭義村按司が此れを知つて、復興の望みを托し復興して東風平村を救済した話がある。

 義村按司は、東風平総地頭と云ふ大きな責任もあったが、東風平の事情に通じてゐる按司には、未だ々救済の望みがあつた。そこで村民が意気消沈して恢復の望も全く失せて沈淪(ちんりん)してゐる際、按司は首里の広大な御殿を閉鎖し、家族諸共に東風平村役場に出張して狭隘なる昔の番所を拝借し、朝は露を踏んで出でて村民を激励し、夕は星を戴いて鞭撻したので義村按司の指導精神が徹底し、停止状態の村民に生気が添ひ、日一日と光明を得る様になり、復興の端緒を得て遂に救済は成功したものである。義村按司は剛直の人であったが、首里政府よりの御手入処分を恥ぢ、其れは東風平間切総地頭としても恥辱たる事を察し、其の衝に当つたので、する事なす事皆な真剣で、自ら産業振興の第一線に立って奮闘したものである。

 例えば冬の寒さや夏の暑さを物ともせず、粉骨砕身、あらゆる辛苦を農民と共に嘗め、身は瘠せ色は焼け、全く人見分けの出来ない程に働いたので、あんなに衰耗して少しの生命力も消えてゐた東風平村が復興して他の村同様の足並みになったと云う事である。

 

 荒廃著しい東風平間切を復興させた志禮の活躍は高く称賛されるべきことである。救済の一念を抱いて、家族諸共首里御殿を引き払って、6か年も東風平間切に詰めた。因みに、東風平魂と言葉があるが、志禮の決して諦めない決意の強さを指しているのかも知れない。

(記:平成25719日)

(改:平成25827日)